写真芸術、あるいはあらゆる芸術は、創造主から生まれるものですよね?芸術そのものが表現であり、想像力の実現です。彫刻、映画、詩、絵画、歌、ダンス、イメージ、それらはすべて、芸術家の心から生まれた、顕在化した成果物なのです。
私の考えでは、それが芸術の前半であり、後半には私たち観客が関わってきます。
しかし、芸術と無作為なものをどう切り離せばいいのでしょうか?私たちは常に音を立て、写真を撮り、意味不明な文章をここに書きます。それら全てを芸術とみなすことはできないはずです。では、芸術にはある程度の美しさが不可欠であり、人間の内面を投影できると考えるのは妥当なのでしょうか?
芸術は、私たちの、より適切な言葉で言えば、人間性を反映するものだと私は信じています。しかし悲しいことに、私たちはしばしば、目の前にあるものに気づくことさえできず、ましてやその内なる本質を見抜くことなどできません。私たちはすぐに判断し、拒絶し、否定さえし、(それが何であれ)それを実証することに時間をかけすぎてしまいます。
これ以上話が進むと、哲学、さらにはスピリチュアルな領域に踏み込んでしまい、「ヨガとは何か」という話になってしまうので、まずは具体的な話から始めましょう。
現在の社会階層において、芸術とは文字通り、専門家が言う通りのものであり、そうでないものである。私たちがそれを好きかどうかは問題ではない。上位者からの評価が芸術を決定し、それが価格に反映される。評価が高ければ高いほど、芸術性は高まり、価格も高くなる。
ライカ・オスカー・ベルナック賞は芸術ですが、シャッター・アライアンス賞(もしあるとすれば)は完全な冗談です。
ここで疑問となるのは、「高位の権威とは何か」ということです。端的に言えば、権威とは、私たち全員が認め、承認し、そしておそらくは尊敬する個人、あるいは集団のことです。私たちは、彼らが私たちに何を伝え、構造的な方向性を与え、この排他的な友愛団体の一員となるための目標を与えてくれると信じています。
芸術は複雑なテーマであり、最低限の理解に達するだけでも何年もの学習が必要です。しかし、芸術は「見る人の目」によってのみ芸術となるのです。簡単に言えば、「私がそうであると言うことが、そうである」ということです。
そしてなぜダメなのか?